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 かつては、茶と縁を結ぶことになるとは思いもしなかったし、緑茶が自分の生活の中でこれほど重要な意味を持つようになるとも思わなかった。
 子供の頃は家が貧しかったので、母が買ってくる茶は安物の粉末茶ばかりだった。それゆえ茶を飲むということはほっぺたを膨らませて粉末茶に息を吹きかけることで、茶というのは本来褐色だとずっと思っていた。
 こういうどうでもいいような気持ちでずっと茶を飲んできたが、ある日友人が家に来て、「新茶が売りに出された。君のところにいい茶はあるかい?」と尋ねた。私は当然のことのように引き出しから茶葉の袋を取り出して、値段のラベルを指差し、「これはいい茶だ」と言った。思わぬことに、それを飲むと友人は困ったような顔をした。ガックリきた私が「いい茶じゃないのかい?」と尋ねると、友人は「いい茶なんだろうけど、樟脳と一緒に置いていたんじゃないの」と言った。
 その茶を入れていた引き出しに樟脳も入っていたのかは覚えていない。でも、「飲みたくても飲めない」と言いたげな友人の表情を見て、忘れがたいほどの後ろめたさを感じた。長年抱いてきた茶に対する見方が粉々に砕け散った。「茶にはいいものと悪いものがある」という茶を嗜む者の常識を初め知ったのである。
 茶を熱愛する友人は多く、江蘇茶、安徽茶、竜井茶などそれぞれの好みがあった。彼らが自分の好みの茶を賛美するのを聞いていても最初は何もわからなかったが、徐々に知らぬ間に影響を受けてきた。ある静かな春の夜、新しく淹れた一杯の茶を両手で捧げ持っていると、茶の美しさについて突如悟りを開いた。茶のたとえようもない緑と香りが手元にあり、口元にあるのだ。それ以降、清らかな茶が手放せなくなった。
 いにしえに思いを馳せるために茶を飲むのではない。茶を飲むことは、自らをもてなす最も簡潔で最も容易な方式だ。いい茶を飲んでその緑と香りを味わえば、うわついた心も不思議なくらい静かになる。大自然が与えてくれた緑の仙薬かと思うほどだ。湯を注いで茶を淹れる動作、茶杯を手に持つときの期待、杯の中の緑と香りが混乱と緊張の現実の中の私たちをリラックスさせてくれる。
 茶を飲むと口と腹が喜ぶだけではない。ガラスコップの中の緑の茶葉をじっと見ていると、鉄筋コンクリートのビルの窓から山野や自然をイメージできる。万樹の芽吹きや雲と霧、日の出や日没の時の緑の世界がイメージできるのだ。こういうふうに精神を解き放つことは一種の享楽といえるだろう。
 もう茶葉に樟脳のにおいをしみ込ませることなどない。多くの友人が茶葉の保存法を教えてくれたからだ。鉄の缶に入れたり、冷蔵庫に入れたり、クラフト紙でくるんだりだ。毎年春になると、新しく摘んだ茶葉の居場所を探す。きちんと探さねばならない。全ての緑と全ての香りを心を込めて守る必要があるからだ。