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「穀雨の頃、茶のいい季節になった、鼎の湯が沸き友人がやってきた」これは文徴明が自らの絵に添えた詩だ。彼が描いたのは山水の間にたたずむ茶飲み小屋で、そのゆったりとした境地は憧れを抱かせる。現在は穀雨はすでに過ぎ、立夏の後だが、亜熱帯の夏は特別に長くて蒸し暑いので、人里離れた緑滴る山の中、さらさらと流れる小川のほとりに小さな茶飲み小屋を建て、じめじめした夏を過ごしたい。行き交う旅人に足を休めてもらうような場所だ。そこには清らかな香りの緑茶と、大自然の美しい風景がある。
雷や大雨の時はそこで雨宿り、月や星の夜はそこで夕涼み。二、三の知己と、緑茶。竹のいすに寝そべり思う存分語り合う。とても快適な生活情緒だ。
 しかし騒がしい都会では、どこに行けばこういうゆったりとした茶飲み小屋があるのか?
 過度に忙しく緊張した生活を送っていると、時として気持ちが落ち着かなくなる。はなはだしくは抑鬱的で悲観した情緒になってしまう。「ああ!機械になったみたいだ。思想すらなくなってしまった。鈍感で卑俗な存在になりはて、インスピレーションは消えてしまった。本を読もうと思っても心が落ち着かないし、友達と話をしようと思っても時間がない。友達も私のくどさにはうんざりしているのかもしれない」という恨み言をよく聞く。私も似たような経験をしている。私は職業女性でもあり家庭の主婦でもあるのだが、メードが辞めることもあるし、仕事や家事、子供のことで息が詰まるほど忙しいこともある。そういう時は非常に不快な気分になり、生活とはあわただしくて味気のないものだと思ってしまう。どれほど暖かな友情と励ましを渇望し、俗世間から遠く離れた小さな茶飲み小屋を渇望することか。腰を下ろして一息つき、友人たちに苦しみと悩みを訴えたいのである。
 そういう経験を何度かすると、まるで陰晴定まらない天気をずっと過ごしてきたみたいに、徐々に私は適応できるようになっていった。そして、そこからいくらかの楽しみ、忙中間を盗む楽しみを感じ取れるようになっていった。つまり、どんなに忙しくても、心の落ち着きを保たなければならないということだ。今日やるべきことは今日やってしまい、明日のことは明日処理する。その後腰を下ろし、緑茶を一杯捧げ持ち、ゆっくりすすっていくのである。たとえ数行でもいい。楽しく本を読む。アルバムをめくったり、机の引き出しを整理して、友人から来た手紙を取り出してもう一度読んでみる。あるいは、お互い都合がよければだが、友人と短時間電話で話すのもいい。また、窓辺にもたれて物思いにふけるのも悪くない。そういうふうにすれば緊張した神経はリラックスし、すべてが活気に満ち溢れているように感じられるだろう。そして会いたかった友人の声や笑顔が次々に目の前に浮かんでくるだろう。
 これは風景の美しい小さな茶飲み小屋でくつろぐのと同じくらい、楽しいことだと思う。
 この茶飲み小屋は、遠いところではない、私たちの心の中にある。仕事で疲れたり、気分の良くないとき、すべてを捨てて、ここに来て、緑茶を飲みながら、友人たちと心の中で会う。心の言葉で友人に語りかけるのだが、友人たちの尽きないおしゃべりが聞こえ、誠の思いが感じ取れるような気がする。沈黙の中、友人と深く意気投合し、楽しく交流するのである。この心の中の小さな茶飲み小屋では、いつも友人が待っていてくれる。時間や空間の制限を受けず、いつでも会話ができるのである。
 緑茶はお酒よりおいしい、といつも思う。お酒は人を興奮させるが、緑茶は落ち着かせるからだ。以前よき友人と張潮の「幽夢影」を読んだが、何度も味わい、陶酔した。今、そこに「お酒を飲むのは豪快な友人、薬を飲むのは畏敬すべき友人、コーヒーをすするのは趣きのある友人、冷たいものを食べるのはすぐれた友人、緑茶を味わうのは秀逸な友人」と書き加えたい。心の中の茶飲み小屋では、何物にも縛られず、自在にゆったりと、気ままに古今を語ることができる。「微笑すればすべてが知己だ、目障りな人はいなくなる」と思えるだろう。とても軽やかで愉快な情景ではないか?