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中国の歴史上茶をたたえる最初の詩文は、晋代の杜毓が書いたといわれている。紀元四世紀の初めに世を去ったが、今日で言えば大学学長に当たる職務についていた。
 中国の歴史上もっとも有名な茶に関する詩は、名高い盧仝によるものだ。彼は唐代の隠士で、玉川子と号した。これについては他の文章で紹介したので、ここでは述べない。
 九世紀晩唐の時代の詩人皮日休(834-883)は、朝廷の官吏だったこともあるが、茶摘みや茶の加工に関する詩をかなり書いた。茶具に特別な興味を持っていたようだ。社会的な責任感のかなり強い人だったので、「反逆者」となり、黄巣の乱の農民軍に加わった。その後どうなったかはわからない。農民軍に殺されたとも、朝廷に殺されたとも言われている。
 皮日休と並び称されているのが陸亀蒙(?-881)で、「皮陸」という呼び方もある。茶の山に隠居し、楽しく過ごしていた。彼はまた呉興の顧渚山に茶畑を買い、新茶がとれると真っ先に味わい、「雨後芳を採り、雲間に幽路危うし」のような茶詩を書いていた。
湖州では、茶聖陸羽の周囲に、大量の文人が集まっていた。大書道家の顔真卿は湖州で太守の職にあったとき、陸羽、皎然、張志和、孟郊、皇甫冉ら五十人以上の詩人を集結し、詩文を作ったり絵画を鑑賞したりしていた。まさい色とりどりだった。
 皎然は姓は謝だが、湖州杼山の妙喜寺で出家し、詩僧と称されている。僧ではあったが、寂寞に甘んじることはせず、多くの文人と交わり、大量の茶詩を書いた。また陸羽を寺に招き、一緒に茶を味わったりもしていた。あと皇甫冉だ。陸羽について研究している人なら必ず注目する人物だ。彼が陸羽に送った「旧知山寺の道、時に野人の家に宿す。王孫草に借問す、何時碗花を放つかと」という詩句は有名だ。王孫草は茶を指し、碗花は茶の泡を指している。
 日本人に特に好まれている張志和という詩人もいる。「西塞山前白鷺飛び、桃花流水鳜魚肥ゆ。青き箬笠、緑の蓑衣、斜風細雨
帰るを須いず」という詩で有名だ。
 彼は陸羽ととても気が合った。名声を聞いて皇帝が男の奴隷と女の奴隷を一人ずつ賜ったのだが、張志和は二人を結婚させ、男の方に漁童、女の方に樵青という名を与え、男には釣り舟をこがせ、女には花栽培や茶の手伝いをさせた。
 ここで、女性道士であり詩人でもあった李冶(李香蘭)について語らねばならない。個性がありロマンの才能あふれる女性で、陸羽との特殊な友情によって後世に語り伝えられている。容姿端麗でスマートにふるまい、琴を弾き詩を作ることを好んだ。五、六歳の時「まだ樹木は育っていないが、花や枝は乱れるばかりに咲いている(まだ体は女の子だが、心は大人のように咲いている)」という内容の「薔薇を詠む」という詩を作ったのだが、これを見た父親は暗に驚き、大人になったらどうなるのかと心配した。その後女性道士となり、陸羽や皎然などの文士と交遊した。とても美しい詩を作ったので、同時代の詩人劉長卿に「女性の詩豪」とたたえられた。天宝年間、その才能と名前を聞いた玄宗皇帝に呼ばれ宮中に一か月余り滞在したが、のちに宮中を出て女性道士となった。建中元年(780)、「茶経」の印刷が完了したので、陸羽は喜んで太湖の開雲観に彼女を訪ねたが、思わぬことに病気だった。ロマンあふれる女性詩人は感激し、元気を奮い起こして陸羽をもてなし、「昔去るは繁霜の月、今来たるは苦霧の時。相逢うもなお病に臥し、語らんと欲するも涙まず垂る。強いて勧む陶家の酒、また吟ず謝客の詩。偶然一酔を成さば、この外更に何くにか之かん」という詩を贈った。
この詩は「湖上にて病に臥し陸鴻漸の至るを喜ぶ」という題だ。二人の情についてはずっとなぞである。考証によれば!李冶の父親も博学な儒学者で、かつては高級官吏だったが、剛直な性格だったので浮き沈みがあり、官吏をやめて竟陵に居を移し、一女をもうけて香蘭と名付けた。かつて智積禅師が捨て子を李家に寄託したのだが、この子は李疵と名付けられ、兄と妹のようであったというが、二人は夫婦となることはなかった。
唐代の詩人は、大部分が茶と縁があると言っていい。李白、杜甫、劉禹錫、韋応物など、皆そういう詩を書いている。白居易は五十以上の茶詩を書いているが、彼の名作「琵琶行」は薄幸の美人を描き、「門前冷落して鞍馬は稀に、老大嫁して商人の婦となる。商人は利を重んじ別離を軽んじて、前月浮梁に茶を買いに去る…」とうたっている。
浮梁は今の江西にあり、茶を産する。
白居易の詩友元稹は宝塔の形の詩を書いた。そういうイメージ上の芸術が当時とても流行ったのである。
「茶、
香葉、嫰芽。
詩客に慕われ、僧家に愛せらる。
白玉を彫りて碾き、紅紗を織りて羅ぬ。
銚は黄蕊の色に煎じ、碗は曲塵の花に転ず。
夜後明月を邀陪し、晨前朝霞に命対す。
尽く古今の人を洗いて倦まず、まさに酔後に至らんとす。、あに誇りに堪えんや。

香葉、嫰芽
慕詩客、愛僧家
碾彫白玉、羅織紅紗
銚煎黄蕊色、碗転曲塵花
夜後邀陪明月、晨前命対朝露
洗尽古今人不倦、将知酔後豈堪誇 」
宋代になると、茶詩はいっそう盛んになり、茶に関わるエピソードも多くなった。
陸游は詩人の中で最も多くの茶詩を書いた。全部で三百首以上だが、茶を扱う官吏にもなっている。陸羽と同じ姓で、陸羽と同じく「桑薴翁」と号し、「私は江南の桑薴翁だ。泉を汲み、故郷の茶をゆったりと味わっている」と言っていた。
従妹との不幸な結婚のため、彼は中国民衆になじみ深い。彼本人は妻をとても愛していたのだが、母親に無理矢理別れさせられてしまった。一生志を得ぬ大詩人であったが、豪気と煩悶の中、茶に助けを求め、「飯白く茶甘く貧を知らず」という日々を送ったが、それが故に長生きした。
同じく志を得なかった蘇東坡は、官吏としては浮き沈みを繰り返したが、「大江は東に去り」と高らかにうたい、山水を歩き、酒と茶を愛して、自己の境涯を「楽事」として相対した。「西湖をとって西子に比せんと欲すれば」、「従来佳茗は佳人に似たり」など美女を茶と同列に論じるのは彼に始まったようだ。
あるとき彼は病気になったが、杭州西湖の周りをぐるりと歩き、寺を見ると中に入って茶を飲んだ。寺をいくつかまわると
病気がよくなったので、「何ぞ魏帝の一丸薬をもとめん、且らく盧仝の七碗の茶を尽くさん」という名句を書いた。
詩人たちが茶を愛したのは、もとより飲んで味わうためだが、より多くは茶を飲んで恬淡とした超俗的な境地を求めたからだ。「旧友の前で故郷を思うなかれ、しばしの間
火を起こし新茶を楽しもうではないか。詩を作り
酒を味わうには『時』が大切だ」という蘇東坡の言葉の中には、享楽と忘却の情緒が交代に現れ、茶は疑いなく「憂いを忘れさせる草」になっている。
勇敢な将軍や大義を掲げる文官であっても、激しく高ぶった生活の中で、のどかに茶をたしなむことを忘れなかった。「将軍は白髪、征夫は涙」とうたった范仲淹は、歴史的には傑出した儒学者だったが、全部で四十二行の長大な「章岷従事に和する闘茶の歌」を書いた。これは茶詩の最高峰と称されるに値するものだ。「人生古より誰か死無からん、丹心を留取して汗青を照らさん」と書いた文天祥に至っては、意外にも「揚子江心第一泉、南金ここに来たりて文淵を鋳す、男児楼蘭の首を斬却して、茶経を閑評して羽仙を拝す」という詩も作っている。
この偉丈夫は国を治め
天下を平和にした後は、家に帰って、陸羽のように茶を味わいながら仙人のような生活を送りたかったのだろう。

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