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 以下、王旭峰の文章です。
 中国の文人は、詩が書ける人の大多数は書画もできた。学問のある人が身につけておかなければならない芸術的修養のようなものだ。「画」は外国人でも理解できるだろうが、「書」は説明が必要かもしれない。「辞海」の解釈によれば、文字を書く芸術、特に毛筆で漢字を書く芸術のことだ。
 「調琴啜茗図」は唐代周昉の作と伝えられるが、三人の貴族の女性を描いており、一人は琴を奏で、一人は端座し、一人は琴を奏でている人に斜めに体を向け、手に持った湯飲みを唇にあてている。ほかに侍女二人が立っており、傍らの樹木の濃い蔭とでこぼこした岩が心地よい趣を添えている。
 周昉本人が貴族の家庭に生まれ、貴族の女性を好んで描いた。それらの女性の多くはゆったりと生活を楽しみ、ふくよかな容貌で、衣服のひだは簡潔で力強く、色彩は柔らかで麗しい。当時の宮廷や士大夫に重んじられ、皇帝でさえも彼を大切にした。「調琴啜茗図」は、現在はアメリカのネルソン・アトキンス美術館が所蔵している。
 宋代になると、劉松年の「盧仝烹茶図」、「撵茶図」、「茗園賭市図」が世に出て、後世に伝わっている。
 劉松年は南宋の著名な画家で、中国の絵画史上重要な地位を占めている。「画史会要」によれば、「劉松年は銭塘(今の杭州)の人、清波門((別名暗門)外に居住し、俗に暗門劉と呼ばれた」ということだ。
 南宋では絵画も盛んだったが、同様に茶も盛んだった。その主要な原因は宋の徽宗皇帝趙佶だ。この亡国の君主は、国を治めるほうは全くダメだったが、絵画には貢献した。本人が絵が上手だっただけではなく、「痩金書」体を創造し、狂草(草書の一種)も見事だった。古い文物や書画を広く収集し、絵師を網羅して翰林図書院を拡充した。彼が編集を命じた「宣和書譜」、「宣和画譜」、「宣和博古」などの書物は、今でも学者の重んじるところだ。なんとこの皇帝は、茶文化に関する古典的著作「大観茶論」まで著したが、こういうことは古今東西、空前絶後だろう。彼は絵が上手で茶を愛したが、それが文人が集まって茶を味わっている「文会図」という巨大な絵画に結実した。下の者が上に倣い、宋代は茶を飲むことがだんだん盛んになり、一大流行となったが、それも当然だろう。
 劉松年の三枚の茶の絵画は、当時の社会の三つの主要な階層と二つの茶を飲む方式を示しており、宋代の茶を飲む景色を凝縮していると言える。「撵茶図」は当時献上された茶の飲用状況を描いている。帝王や大臣を描いているわけではないが、煎じて飲む前にうすでひいている姿を見ると、かたまりの茶を飲んでいたのだろう。「盧仝烹茶図」は唐代の人が茶を飲む姿を描いているが、それは前王朝の名を借りているだけだ。そして「茗園賭市図」は市民の「闘茶」を描いている。この作品はのちの画家にたびたび真似された。たとえば宋代銭選の「品茶図」と元代趙孟頫の「闘茶図」はその一部をとって手を加えてできたものだ。市民は茶を飲んだだけではなく、茶と関連のある、あるいは茶から離れた様々なゲームを盛んに行い、それが一種の習俗にもなった。南宋で茶がどれほど盛んだったかがわかるだろう。著名な宮廷絵師だった劉松年が、茶のことを再三描いたのがその証左だ。
 元代趙孟頫の「闘茶図」はとても有名だ。四人を描いているが、その中の一人が片手に竹炉をぶら下げ、もう一方の手に湯飲みを持ち、頭を少し上に向けて茶を味わっている。他の人がその姿を凝視しているが、ご高説を待っているかのようだ。その中の一人が細くて注ぎ口の長い急須で湯飲みに茶を注いでいる。人物は生き生きしているが、構図は緻密だ。趙孟頫は湖州の人で、元代の大画家、新しい画風を創り上げた。その夫人と弟も絵が上手だった。てくるようだ。その中で人が茶を置いて待っている。流水にかかっている小橋の上に、老人が杖をついてゆっくり歩き、琴を抱えた童子が従っている。招待された客のようだ。よく見ると、となりで誰かが心を込めて茶を淹れている。画面は幽邃で静謐、人物は真に迫っており、流水の音が聞こえてくるようだ。静の中に動を含んでいる。
 文徴明の「恵山茶会図」は、明代に行われた茶会の情景を描いている。茶会は、ごつごつした岩とうっそうと茂った樹木の中のあずまやの中で行われた。岩の横に竹炉が置かれ、茶を淹れている人やあずまやで休息している人、山の景色を観賞している人など、さまざまだ。これから茶会が開かれるのだろうか。
 明代丁鵬雲の「玉川烹茶図」、画面は花園の片隅で、二本のバショウの高木の下の築山の前に主人の盧仝(玉川子)が座っており、汲んできた水の入った壺を持った召使と両手で箱を捧げ持った召使が傍らに立っている。盧仝のそばの石のテーブルの上にはこれから使用する茶具が置いてあり、盧仝は左手に羽毛扇を持ち燃え盛る火の上の茶瓶を凝視している。茶瓶の中の松風の音が聞こえてくるようだ。
 清代薛懐の「山窓清供」は清らかで飄逸とした独自の風格を備えており、大小の茶瓶と湯飲みが描かれ、「茶は歯をぬらして後味を残す、眠りを破るので『不夜侯』に封じよう」という胡嶠の詩が添えられている。この絵は渇筆で輪郭をとり、明暗がくっきりしており、まるで現代のスケッチ画のようだ。
 茶芸人の姿を写した彫刻作品もある。北宋の「婦女烹茶図」というレンガ彫刻画が現存する。高くもとどりを結った、ゆったりとした服を着て長いスカートをはいた女性が、長方形の炉の前で茶を淹れている。両手で一生懸命に茶具をぬぐい、わき目もふらない。炉の前には茶碗と蓋つきの急須が置いてあるが、優美で雅な独特の風格を持つ。
 茶と書道については、少しでも常識のある人なら、蔡襄、蘇東坡、徐渭らの大家を知っているだろう。
 墨と茶に関する蘇東坡と司馬光のエピソードが残っている。二人とも茶をたしなむのだが、ある日、司馬光が冗談で蘇東坡に「茶と墨は相反する。茶は白ならんと欲し、墨は黒ならんと欲す。茶は重ならんと欲し、墨は軽ならんと欲す。茶は新ならんと欲し、墨は陳ならんと欲す。あなたはなぜこの二つを同時に愛するのか?」と尋ねると、蘇東坡は「茶も墨もともに香るからだ。あなたの見解は?」と答えた。
 もう言うことはないだろう。
 唐代は書道が盛んだったが、懐素という著名な書道家がいた。出家していたが、酒に酔い、指や袖口、ハンカチに墨をつけ、壁に書をかいた。竜や鳳凰の舞のようで、狂草と称し、一代の大家となった。彼は「苦筍帖」を書いたが、そこには「タケノコと名茶はとても素晴らしい。来てほしい。懐素」と記されている。文も字もよく、気概の大きさを感じさせる。茶聖陸羽は彼をとことん崇め、「僧懐素伝」まで物している。
 蔡襄については説明する必要はないだろう。彼は茶を産する福建に生まれた。福建で官吏だったとき、茶の加工法を改良し、小竜団餅茶を生み出した。茶葉の飲み方の芸術性を高めていくのと同時に、書道のほうも法則を重んじるものから意を重んじるものへと変わっていった。蔡襄の字は、北宋では第一とされた。彼の書いた
 明代の唐伯虎と文徴明も茶を味わうことを題材にした作品が後世に伝わっている。唐伯虎の「事茗図」は緑の山が連なり、渓流に囲まれた小さな村を描いている。高くそびえる古木の下に茅屋があり、滝の音が聞こえ「茶録」は文は「茶経」の発展といわれ、字は有名な手本といわれている。ほかにも「北苑十詠」、「請茶帖」など茶に関する書跡が後世に伝わっており、茶の香と墨の韻を見事に組み合わせたと評価されている。
 明代は才子が輩出した。画家たちは自らの絵に詩を添えるのを好み、あの「唐伯虎秋香を点ず」で民衆の間で有名になった大才子唐伯虎も「事茗図」という絵を描き、「日が長くやることがないので、茶碗を持って愛でている。南の窓の下にいたら、清らかな風が鬢を吹き抜けた」という詩を添えている。字も、人も飄逸としており、みすぼらしくはなく、とても風流だ。
 徐渭(徐文長)もすぐれた大家だ。「煎茶七類」という書跡が残っているが、草書で、青フジがたなびいているようだ。自ら「青藤道人」と号し、中国の文人には少ない剛直な人物で、当時の封建社会にうまく溶け込めず、苦難の一生を過ごした。極度の苦痛の中、耳を錐で刺して自殺しようとしたこともある。書画も詩文も戯曲も見事で、それらによって抑鬱した気持ちを発散しようとしたのだろう。現在の浙江省紹興に、「青藤書屋」という彼の記念館がある。のちに大画家の斉白石は、彼に対する尊敬の念を表現するため、自ら「青藤門下の走狗」と号した。
 こういう人は「茶痴」と言ってもいい。
 清代になると、揚州の八怪(揚州で活躍した八人の書道家)が世に出た。その中の杭州人金農は隷書と楷書に精通し、「漆書」という隷書の風格を持つ楷書体を創り上げた。彼が書いた「述茶」の字は金石風で、張岱の日鋳茶を思い起こさせる。本来、茶の気と書の気は相通じるものなのだろう。
 鄭板橋は自らの書道を「六分半書」と称していた。「湓江の河口に私の家があります。ひまな時にお茶を飲みにきてください」という言葉は彼が書いたものだ。「八怪」の中で梅の絵で有名なのが汪士慎で、一生各地の名茶を味わい続け、「茶仙」の名がある。自分でも「蕉葉の栄悴とともに私は老い衰えたが、茶をたしなんで茶仙の名を得た」と言っているが、茶の魂と梅の魂が渾然一体となっている。
 現代の書道家の中で茶で詩を詠んだ人といえば、もう世を去ったが中国仏教協会会長を務めた趙朴初を最初に挙げねばならない。仏教の大家であったが、詩と書も巧みで、茶も愛した。「七碗至味を受け、一壺真趣を得る。百千の偈を空しく持するは、茶を喫するにしかず」という言葉は仏門の偈であるが、茶を用いて人生の哲理を掲示した詩でもある。
 茶と書道がうまく融合するのは、ともに抽象的な高雅さを有するからだ。書道は簡潔な線の中に豊富な含蓄を求め、茶も素朴さの中に清らかな香気を発している。茶と書道の共通点は、茶人と書道家が一体となった中国の文人が実現するもので、それがまた中国人の修養に役立っているのである。